開国と開港→幕府の滅亡→明治維新→自由民権運動→立憲政治の開始

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江戸時代後期になると、たびたび外国船が日本に来航するようになり、しだいに幕藩体制は揺らぎはじめた。開国後、尊王攘夷運動・討幕運動の展開により江戸幕府は滅亡し、明治新政府が成立した。明治政府は、近代化のための諸政策を実施した。大日本帝国憲法が制定され、日本は立憲国家となった。

近代国家の確立

江戸幕府は、キリスト教が封建支配の妨げになるとみなし、鎖国政策を行ってきた。しかし、江戸時代後期(幕末)になると、たびたび外国船が日本に来航するようになり、しだいに幕藩体制は揺らぎはじめた。開国後、尊王攘夷運動・討幕運動の展開により江戸幕府は滅亡し、明治新政府が成立した。明治政府によって近代化のための諸政策が実施された。大日本帝国憲法が制定され、日本は立憲国家(=憲法に従って政治を行う国家)となった。

ロシアの来航

ロシアが開国を求め、東蝦夷地の根室や長崎にやってきた。これを日本の脅威とした幕府は、蝦夷地全体の守りを強化した。さらにロシアに隣接する千島や樺太を探検家に調査をさせた。

ラックスマンが根室に来航 - 1792年

日本に開国(通商)を求め、最初に来航したのがロシアのラクスマンであった。しかし、幕府はあくまで鎖国を続ける方針を堅持した。幕府は通商を拒否し、代わりに、入港許可証を交付するにとどめた。1804年には、ロシアのレザノフが長崎に来航し、幕府は危機感を強めた。

蝦夷地を直轄化

ラックスマンやレザノフの来航でロシアに対し脅威を感じた幕府は、蝦夷地を直轄化し、守りを強めた。近藤重蔵に千島を、間宮林蔵に樺太を探検・調査させた。

鎖国政策の堅持と外国の脅威

イギリスの捕鯨船がしばしば日本にやってきて、薪水や食料を強要するようになった。幕府は外国船打払令を敷いたが、それまでアジアの強国といわれていた清がアヘン戦争でイギリスに負けると、日本は弱腰となり、外国船打払令を撤回した。

外国船打払令 - 1825年

1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎に乱入。人質を盾に水や食料・薪などを強要して去った。その後もイギリス船が日本近海に出没し、乱暴したので、外国船が来たら打ち払う外国船打払令を諸大名に命じた。

モリソン号事件 - 1837年

日本の漂流民返還と通商交渉のためにやってきたアメリカ船モリソン号に対して、外国船打払令により幕府は砲撃を加えた。これを批判した渡辺崋山・高野長英らが蛮社の獄で処罰された。

天保薪水給付令 - 1843年

アヘン戦争で中国(清)がイギリスに負けると、幕府は日本の危機を感じ、外国船打払令を緩和した。異国船に対しては、燃料と水を補給することだけは許す「天保薪水給付令」にゆるめられた。

開国と開港

強硬な姿勢で開国を迫るペリーとの話し合いの末、幕府はアメリカと条約を結んだ。さらにイギリスやロシアなどとも同じような条約を結んだ。幕府は、200年あまり続けた鎖国を終わらせ、日本は歴史上初めて、外国との本格的な貿易を始めた。しかし、海外との貿易は、物価の上昇をもたらし、国内の経済に混乱を招いた。

ペリーの来航 - 1853年

ペリー(※)が軍艦4隻を率いて浦賀(神奈川県)に来航し、開国と通商を要求。

日米和親条約 - 1854年

ペリー来航の翌年、「日米和親条約」を結び、下田、函館を開港。幕府は、開国への第一歩を踏み出した。続いてイギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結んだ。200年あまり続いた鎖国体制に終止符を打った。

※ペリー:アメリカの東インド艦隊司令長官

日米修好通商条約 - 1858年

1858年、井伊直弼は天皇の許可を得ないままに条約に調印し、日米修好通商条約を締結。外国との本格的な貿易が始まった。

しかし、このときの条約は領事裁判権を認め、しかも日本側に関税自主権のない不平等条約であった。

▼日米修好通商条約の内容

・神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫の開港
・自由貿易の開始
・アメリカの領事裁判権の規定
・関税自主権の欠如(日本に関税の決定権がない)

※領事裁判権とは、日本で犯罪を犯した外国人を日本側で裁判する権利が認められないことで、「治外法権」ともいう。

安政の大獄 - 1858~1859年

日米修好通商条約は、井伊直弼の独断で調印され、しかも、不平等条約であったため、これに反対する大名や公家が後を絶たなかった。井伊はこのような反対派を厳しく取り締まり、公家・大名や志士など100余名を罰した。このとき、徳川斉昭(前水戸藩主)は謹慎させられ、吉田松陰や橋本左内ら8名が死刑になった。

貿易の開始とその影響

当時の輸入品は、毛織物や綿織物などであったが、関税自主権の欠如によって、安い綿織物がたくさん入ってくるようになった。そのため、国内の綿産業は大きな打撃を受けた。一方、輸出によって、養蚕業や製糸業は発展した。また、日本の金が大量に外国に流出した。輸出超過となった日本国内は品薄となり、物価が上昇した。

※当時日本は、発展途上国であり、物価が非常に安かった。そのため、外国人に日本の品物が過剰に売れた。

※商売が盛んであった長州藩は、物価上昇をもたらした外国人に対して反感を持つようになった。それが、攘夷(外国人排斥)につながる要因の一つとなった。

幕府の滅亡

貿易の開始による経済の混乱は幕府の動揺に拍車をかけた。そんな中、長州藩と薩摩藩は倒幕を志向するようになり、坂本龍馬の仲介のもと薩長同盟を結んだ。諸藩を統制できなくなりつつあった幕府は、1867年、大政奉還を行い、政権を天皇に返上した。

桜田門外の変 - 1860年

安政の大獄に反発・憤慨した水戸藩の浪士たちは、幕府の実質トップである大老・井伊直弼を桜田門外で暗殺した。この桜田門外の変によって、幕府の権威は失墜。以後 独断で政治を行うことが難しくなっていった。

公武合体

権威が失墜した幕府は、朝廷と手を結び政治を安定させようとした。

※公=朝廷と、武=幕府が手を結ぶこと。

▼公武合体

井伊直弼が天皇の許可を得ないで日米通商修好条約を結んだことにより、幕府と朝廷の間が、対立状態にあった。これを解消すべく、老中安藤信正は京都の孝明天皇の妹・和宮を14代将軍徳川家茂と結婚させることを計画し、実現させた。このように天皇家「公」と徳川家「武」を合体させて和解を図ろうとした動きを「公武合体」という。

尊王攘夷(そんのうじょうい)

薩長両藩をはじめとする公武合体の反対派は「尊王攘夷」の考え方を持っていた。尊王(尊皇)攘夷とは、天皇を中心にして(尊皇)、外国人を追い出していこう(攘夷)という思想のこと。攘夷が顕著に現れたのが「生麦事件」と長州藩による「四か国連合艦隊への発砲事件」であった。

▼生麦事件~倒幕運動の展開

横浜市内の生麦村で、薩摩藩の大名行列を横切ろうとしたイギリス人を、藩士が斬りつけた事件(生麦事件・1862)が起きた。これがきっかけとなり、翌年、鹿児島湾で英国と薩摩藩の間で戦闘が始まった(薩英戦争・1863)。
同年、九州と本州の間の海峡・関門海峡を航行中の四か国の連合艦隊(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)を、長州藩が砲撃。翌年四か国は下関を砲撃し、長州藩に報復を加えた。薩長両藩は、外国勢力の実力(戦闘力)を見せつけられて攘夷が不可能であることをさとり、攘夷から開国・倒幕へと方針を転換。その後、積極的に外国から武器・弾薬を購入し、高い軍事技術を藩内に取り込んで軍備の西洋化を進めた。

薩長同盟 - 1866年

土佐藩(高知県)を脱藩した坂本龍馬は、対立していた薩長両藩を和解させた。1866年には、倒幕を鮮明にかかげた「薩長同盟」が締結された。この流れに、従来から江戸幕府に反感を持っていた京都の貴族「公家」が協力するようになり、倒幕運動は、急速に勢いを増した。

※薩摩藩では、西郷隆盛・大久保利通、長州藩では、高杉晋作・木戸孝允らは下級武士でありながら藩内の指導的立場にあった。

▼薩長同盟の締結と坂本龍馬

力を持つ薩摩と長州が手を組めば新しい日本を作れると考えたのが、土佐藩出身の坂本龍馬であった。龍馬は、武器を欲しがっていた長州藩に薩摩藩の武器を、米を欲しがっていた薩摩藩に長州藩の米を、それぞれが必要なものを取り引きさせた。これをきっかけに、1866年、「薩長(さっちょう)同盟」が結ばれた。薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)、それに坂本龍馬が加わり、約束が交わされた。

幕府による長州追討 - 1865年

幕府は、倒幕運動の先頭を切っていた長州藩に対して、各藩に動員をかけ、大軍勢で征伐しようとした。しかし、薩長同盟を結んでいた薩摩藩は出兵を拒否。薩摩藩らの協力を得られない幕府は、長州との戦いで敗北を重ね、戦争は長州の勝利に終わった。この戦いを機に、幕府が武力で全国を支配することは、難しくなり、倒幕の流れを早める結果となった。

大政奉還 - 1867年

薩長両藩及び公家の倒幕の勢いに抵抗することができないとみた第15代将軍、徳川慶喜は、ついに江戸幕府が握っていた政権を京都の朝廷に返還した(大政奉還)。ここに、およそ260年続いた江戸幕府に終止符が打たれた。続いて「王政復古の大号令」が宣言され、天皇を元首とする明治時代(1868年~)が始まった。

※王政復古…古代のように天皇家が政治の実権を持った状態に戻ること

戊辰戦争 - 1868年

慶喜は大政奉還をしても、なお政治の主導権を握ろうともくろんでいた。慶喜は政権を朝廷に返すと表明することで倒幕派の機先を制し、政治の経験の無い朝廷に代わり、新たな政治体制の実権を握ろうとしていた。慶喜のもくろみに対し、西郷隆盛らがクーデターを起こし、戊辰戦争が始まった。翌年、旧幕府軍は降伏し、徳川家の支配に完全に終止符が打たれた。

▼戊辰戦争

戊辰戦争は、明治元年(1868年)、新政府軍と旧幕府軍との間で起きた。1868年1月京都市で起きた鳥羽・伏見の戦で幕府はもろくも敗退。1869年には函館戦争なども起こるが、結局は新政府側が勝利して明治政府が全国を完全に統一した。なお、この一連の戦争中、イギリスは新政府(薩長公家派)を支援し、フランスは旧幕府軍を支援した。

※戊辰戦争1868年…「ひとつやろうや戊辰戦争」と覚える。

明治維新

明治維新とは、日本を近代国家にするため、明治時代の初めに行われた一連の諸改革のこと。江戸時代の幕藩体制では、各藩が独自に政治や税の徴収を行う「地方分権」だった。これに対して明治新政府は「版籍奉還」「廃藩置県」などを行って中央集権国家の建設を目指した。

※7世紀の大化の改新の際にも、天皇を中心とした中央集権国家の建設が行われた。その後、平安時代の終わりから武士が台頭し、江戸時代には将軍を中心とする幕藩体制となった。

「五箇条の御誓文」を発布 - 1868年

明治天皇が示した新政府の基本方針(近代化の政策)。

中央集権国家の成立

「版籍奉還」「廃藩置県」で藩主たちの権力を奪い、政府に権力を集中させた。これにより、藩主と藩士との主従関係をなくし、江戸時代の身分制度が廃止された。

▼版籍奉還

大政奉還後も全国は藩主(大名)に支配されていた。明治新政府(大久保利通、木戸孝允ら)は、中央集権を図るため、藩主の土地(版)と人民(籍)の支配権を朝廷に返還させた。これが版籍奉還(1869/明治2年)である。大久保利通らが薩摩(鹿児島県)・長州(山口県)・土佐(高知県)・肥前(佐賀県)4藩主に版籍奉還を願い出させ、他の藩主も次々とこれにならわせた。このあと政府は、藩主をそれぞれの藩の知藩事に任命した。この結果、政府の藩への統制力は強まり、さらに廃藩置県(1871/明治4年)を行い、中央集権化を進めた。

▼廃藩置県

版籍奉還では、旧藩主が知藩事となったため、封建制度は存続していた。これを改め、中央集権体制を強化するため、藩を廃止して府県に統一した。これが、廃藩置県(1871/明治4年)である。この結果、地方は3府302県となり、知藩事に代わって府知事・県令(のちの県知事)が中央から派遣された。これにより、天皇を中心とする中央集権国家の統治基盤が確立した。その後、府県の統合が進み、1890年には3府43県となった。

身分制度の廃止

明治新政府は江戸時代の身分制度(士農工商)を廃止。武士の特権を奪い、身分によるさまざまな制限をなくした。皇族以外は平等とし「四民平等」を目指した。

明治維新の三大改革

政府は、欧米諸国に対抗し、軍備整備を進めるための「徴兵制」、経済を発展させて国力をつけるための「税制(地租改正)」、教育振興のための「学制(近代的な学校制度)」を定めた。これらは「富国強兵」政策とよばれ、日本の近代化の基礎となった。

※地租改正は、全国の土地を調査して、地価を定め、地券を発行し、地価の3%(のち2.5%)を地租として納めさせる制度。

※「徴兵令」では、満20歳以上の男子に兵役の義務を負わせた。また、東京に警視庁を置き警察制度を発足させた。

岩倉使節団

明治政府は、条約改正の準備交渉と欧米のようすを視察するため、アメリカ、ヨーロッパ諸国に岩倉具視を中心とした、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など100人を超える使節団を送った1871~73/明治4~6年)。条約改正という目的は不成功に終わったが、政府首脳に海外事情を認識させ、富国強兵を痛感させた。

自由民権運動

明治新政府は「徴兵制」や「地租改正」などによって国民に対してさまざまな義務を課した。一方、国政はおもに倒幕の主役を担った薩長藩出身の一握りの人々が要職を握る状態が続いていた。これに対して1874年ごろから、国民の政治参加を求める機運が高まり「自由民権運動」が起こった。運動の高まりを見た政府は「国会開設の勅諭」を出して1880年に国会を開くと公約した。

士族の反乱

明治政府は、倒幕の主役であった薩長藩出身者が要職を独占し、旧士族(旧武士階級)の特権や俸禄(=給与のこと)を廃止したため、旧士族の不満が募った。各地で旧士族の反乱が起きたが、1877年、旧薩摩藩(鹿児島県)の西郷隆盛の率いた西南戦争を最後として反乱はおさまった。これ以後、反政府運動は武力を用いない自由民権運動へと変わっていった。

自由民権運動の始まりと広がり

旧士族を中心とする政府専制に対する不満は、自由民権運動となり、議会の開設、憲法の制定、国民の政治参加などの主張がなされた。1874(明治7)年、板垣退助は「民撰議院設立の建白書」を提出。一日も早い民撰議院(選挙による国会)の設立を要請した。

※「民撰議院設立の建白書」は自由民権運動の発端となった歴史的文書。

▼自由民権運動のはじまり

民撰議院設立の建白書では、政府の実権が薩摩・長州など一部の藩出身の官僚に握られていることを批判し、国民の声を反映する民撰議院を開設するべきだと訴えた。この建白書は新聞に掲載されて大きな反響を呼び、国会開設を求める動きが広まり、自由民権運動が始まった。

国会開設の勅諭

広がりを見せる自由民権運動の鎮静化を図った政府は、「国会開設の勅諭」を出し、10年後の国会開設を約束した。

運動の激化

1874年、板垣退助は、土佐(高知県)で立志社を結成し、自由民権運動をとりまとめた。1880年には自由党を結成。また、明治政府を追放された民権派の大隈重信は1882年に立憲改進党を結成した。民権運動は貧困にあえぐ農民たちの不満と結びつき、福島事件・秩父事件などの過激な農民暴動を起こした。

運動の衰退

民権運動の運用資金は、スポンサーである裕福な商人や豪農などから拠出されていた。民権運動のスポンサーは、運動の激化に不安を抱き、民権運動から離れていった。スポンサーを失った民権運動は衰退した。

立憲政治の開始

国会開設を公約した政府は伊藤博文をヨーロッパに派遣して近代国家の憲法や諸制度を調査させた。そして1889年に大日本帝国憲法を発布。翌年、憲法に則って衆議院議員総選挙が行われ、第1回帝国議会が開催された。

立憲政治の準備

明治政府の中心人物であった伊藤博文たちは、国会開設、憲法制定に備えて、近代国家の法制度をヨーロッパで学んだ。国家の仕組みを整えながら、ドイツの憲法を参考として、日本の憲法の草案を作成した。1885年には内閣制が発足し、伊藤博文が初代の内閣総理大臣となった。

憲法発布

1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布された。天皇の権威、国民の権利などが明記された。

初期議会

大日本帝国憲法の下で、議会は衆議院と旧華族(もとの大名など)からなる貴族院の二院制とされた。1890年には、第1回衆議院議員選挙が実施され、帝国議会が開会。日本はアジアで初めての憲法と議会を備えた立憲君主国となった。会期中に予算案を通過させ、立憲政治の運用がまずは成功した。

※このときの衆議院議員選挙で選挙権を持ったのは、満25歳以上の男子で直接国税を年間15円以上納めるものに限られたため、国民全体の1.1%にしか選挙権がなかった。


〔参考・引用〕
第一学習社「高等学校日本史A」/NHK高校講座「日本史」/東進ブックス「金谷の日本史(近現代史)/教育テレビ「10minボックス日本史」