不平等条約の改正→日清戦争→日露戦争→大正デモクラシー

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アジアへの侵攻

日本は、外交課題であった条約改正を実現し、日清・日露戦争を経て、アジアへの侵略をはじめた。日本国内では、明治・大正の時代の移り変わりとともに国民の生活は大きく変化した。大正デモクラシーとよばれる民主主義的な風潮も強まり、民衆運動が政治を動かしはじめ、政党政治が展開した。

不平等条約の改正

1858年に幕府が列強と結んだ「安政の五か国条約」は「領事裁判権の規定」や「関税自主権の欠如」など、日本にとって不利な不平等条約だった。国際社会の中で自立した近代国家を目指す明治政府にとって、不平等条約の改正は悲願であった。政府は条約改正を目指したが、列強はなかなか条約改正に応じなかった。

▼領事裁判権の規定と関税自主権

領事裁判権とは、外国人が在留している国の裁判権に服さず、本国の法にもとづいて本国の領事の裁判を受ける権利。「安政の五か国条約」では、日本で罪を犯した外国人を、日本人が日本の法律で裁くことができなかった。

また、関税自主権とは、国が輸入品に自由に関税をかけることのできる権利。「安政の五か国条約」では、日本は輸入品の税率を自主的に決めることができなかった。

条約改正の努力

外務卿(今の外務大臣に相当)井上馨は、欧化政策を行ない条約改正交渉に臨んだ。日本側は「領事裁判権の撤廃」と「関税自主権の回復」を求めたがイギリスに反対され、妥協案を受け入れざるを得なかった。

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イギリスが提示した妥協案は、領事裁判権を撤廃する代わりに、外国人の裁判には、外国人判事を半数以上任用するというもの。実質上、領事裁判権を認めているのと同様であった。

妥協案が明らかになると、民権派のみならず政府内部からも激しい反発を受け、井上馨は辞任。条約改正会議は無期延期となった。

なお、イギリスが領事裁判権の撤廃に反対したのは、当時の日本は法制度が整っておらず、司法制度の整備も遅れていたからである。

憲法発布と条約改正

大隈重信は、欧米列強との個別交渉を行った。これが功を奏し、交渉が進展した。さらに、伊藤博文らが中心となって作成を進めていた大日本帝国憲法の完成が、これを後押しした。しかし、大隈重信は反対派の襲撃で重症を負い、交渉は延期された。

条約改正の成功

ロシアと対立を深めるイギリスが日本に歩み寄るようになった。イギリスが条約改正に応じると他の国もそれに続いた。

日清戦争

1894年の日清戦争勃発は、日本と清のどちらが朝鮮において主導権を持つかという対立が原因であった。当時朝鮮は東アジアの大国、清の属国と位置づけられていた。これに対し、日本は朝鮮を独立国と見て、近代的な国際関係を持とうとした。背景には、ロシアの東アジア進出を阻止する目的があった。

明治国家とアジア

大陸の秩序(中国を頂点とする、古来からの伝統的な国際関係)の維持を主張する清と近代的な国際関係を求めた日本は、朝鮮に対する主導権をめぐって対立した。

大陸の秩序▼

朝鮮をめぐる日清両国の対立の背景には、大陸の秩序(華夷秩序)というものがあった。これは東アジアにおける、中国を頂点とする、古来からの伝統的な国際関係のこと。この秩序のもとでは、朝鮮は清の属国と位置付けられていた。日本はこれを否定し、朝鮮を独立国とみなし、近代的な国際関係を持とうとした。

戦争の勃発と経過

1894年、朝鮮の内乱からはじまった日清戦争では、日本は遼東半島を占領するなど、日本の勝利に終わった。その後、下関条約が結ばれ、講和が成立した。

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日本軍は、清国軍を朝鮮から追い払い、さらに遼東半島を占領。黄海開戦では、清の北洋艦隊を打ち破り、圧倒的な勝利を収めた。

1895年、下関条約が結ばれ、日清両国の講和が成立。清の敗北によって東アジアの伝統的な大陸の秩序は崩壊。朝鮮は独立国となり、国名を「大韓帝国」とあらためた。

戦争の影響

下関条約調印からわずか6日後、中国東北部への進出を狙うロシアが、ドイツ、フランスと共同で、遼東半島の返還を日本に要求。三国の圧力に対し、日本の国力などを考えた政府は、この要求を受け入れた。しかし国民の間にはロシアへの対抗心が高まり、政府も軍備の拡張や工業化を図った。

琉球と北海道

かつて蝦夷地と呼ばれた北海道ではアイヌ民族が独自の言語と文化を育みながら暮らしていた。また、現在の沖縄県には琉球王国という海洋国家があった。

近世の蝦夷地

17世紀、シャクシャインの戦いに敗れたアイヌ民族は、以後、全面的に松前藩の支配下におかれた。

蝦夷地から北海道へ

19世紀後半、富国強兵を目指す明治政府は、蝦夷地を「北海道」と改め開拓を進めた。

琉球から沖縄へ

江戸時代、琉球王国は島津氏の支配下に置かれていた。19世紀後半、明治政府は武力を背景に、琉球藩を排し、琉球から沖縄と改め(沖縄県とし)、支配を強めた。

日露戦争

1904年、日露戦争が勃発。背景には朝鮮半島を巡る日本とロシアの確執があった。戦争は日本が勝利を収め、戦後日本は大陸への進出を強めた。

戦争の背景

朝鮮半島に権益を持っていた日本は、満州と朝鮮半島に影響を強めるロシアの動きに危機感を強めた。1902年、日本は日英同盟を結び、対抗した。

戦争の経過

日本は戦争を優位に進めたが、実は、軍事的にも財政的にも限界に達していた。1905年のポーツマツ条約調印によって、日露戦争は終結した。

戦後の状況

日露戦争後、日本は韓国を併合したことに加え、満州にも進出し、鉄道や都市の建設などをを展開した。

大正デモクラシー

20世紀初めの大正時代、日露戦争に勝利した日本は、国民の間に「一等国」の意識が生まれた。しかし、政治は元老率いる藩閥に握られ、国民の意見が反映されてはいなかった。

第一次護憲運動

閥族政治を行う政府に対し、憲法に則り、議会を尊重する政治を求める運動が起きた。

第一次世界大戦の影響

総力戦体制のため、国民の民主的要求が高まり、世界では多くの社会的改革が実現。日本でもさまざまな社会運動が起きる。

原内閣の成立

国民の不安が爆発した米騒動をきっかけに本格的な政党内閣が誕生した。



〔参考・引用〕
第一学習社「高等学校日本史A」/NHK高校講座「日本史」/東進ブックス「金谷の日本史(近現代史)