ヴェルサイユ条約→金融恐慌→昭和恐慌→日中戦争→太平洋戦争

日中戦争・太平洋戦争

日本は第一次世界大戦をきっかけにして、国際社会で高い地位を得た。アジアに対して軍事力を背景に強硬にふるまったが、欧米とは協調外交を続けた。軍部が暴走し中国への侵略が続くなかで、さらにアメリカとの戦争(太平洋戦争)をはじめるが、国内外に多くの犠牲者を出して、戦争は日本の敗北に終わった。

▼第一次世界大戦への日本の参戦

1914年、バルカン半島のサライエボでオーストリアの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺された(サライエボ事件)。これをきっかけとして、たちまちのうちにドイツ・オーストリアーハンガリー・イタリア(※)の同盟国側と、イギリス・ロシア・フランスを中心とする三国協商で結ばれた国々(連合国側)との間の全面戦争(第一次世界大戦)に拡大した。日本は日英同盟を結んでいることから協商国側に参戦し、ドイツに対して戦争を仕掛けた。ドイツの植民地であった中国の青島やドイツ領有の南洋諸島を占領した。中国には二十一か条の要求を出して利権をあさり、世界各地への輸出を躍進させて、戦争中に工業生産は5倍にも増大した。

※イタリアは、植民地をめぐるフランスとの対立から三国協商側に加盟したが、翌年、三国同盟を破棄して協商国側についた。

新たな世界秩序

第一次世界大戦後、ヨーロッパは大きなダメージを受け、社会主義国ソ連が誕生し、アメリカが大国となった。そのアメリカの主導で新しい世界秩序が形成された。また、中国や朝鮮では、反日・独立運動が起こった。

ヴェルサイユ条約

1919年、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で戦後処理をめぐる講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が調印された。この講和条約によって、新しい国際関係がつくられ、アメリカ大統領ウィルソンの提唱で、「国際紛争の平和的解決」と「国際協力」を目的とした国際連盟の設立が決められた。

※第一次世界大戦はドイツなど同盟国側の敗北で終わったが、ヴェルサイユ条約では、敗戦国ドイツに対して領土の縮小、膨大な賠償金が課せられた。

アジアの民族運動 - 朝鮮「三・一(さんいち)運動」

日本の植民地支配のもとにおかれていた朝鮮では、独立運動が高まった。1919年3月1日、現在のソウルで学生らが日本からの独立を宣言すると、これに刺激を受けて独立を求める運動が朝鮮全土に広がっていった。この運動を、朝鮮総督府は武力で鎮圧したが、その後は高圧的な統治方針を緩めた。しかし、独立運動はその後も根強く繰り広げられていった。

アジアの民族運動 - 中国「五・四(ごし)運動」

第一次世界大戦で、ヨーロッパ列強が中国への勢力が弱まったのに乗じて、日本は、中国に「二十一力条要求」を強引に突きつけ(1915年)、山東半島、満州方面での権益を認めさせた。この事態は中国の民衆の激しい反発を招き、1919年5月4日、北京で会議の内容に反対する学生集会をきっかけに、中国各地で学生や労働者を中心とした反日運動が起こった。この運動は、日本や列強の帝国主義と政府に反対する国民運動へと発展していった。

ワシントン体制と協調外交

第一次世界大戦後、イギリス、アメリカ、日本をはじめ、列強各国は自国の軍備増強を競った。しかし、その行き過ぎは国際関係の緊張を増す上、各国の軍事費支出の負担が耐え難いものとなった。1921年、アメリカの提唱で、海軍軍縮とアジア・太平洋地域の問題を審議する国際会議「ワシントン会議」が開催された。国際協定が結ばれ、戦争再発の防止と列強間の協調を目指した。アジアと太平洋地域の新たな国際関係(ワシントン体制)に日本も積極的に参加した。このワシントン体制を受け入れた日本は、英米との協調外交を展開していった。

▼ワシントン会議

会議の主導権はアメリカとイギリスにあり、目的は軍備の縮小と、第一次世界大戦に乗じて中国に進出した日本を抑えることにあった。アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5大海軍国の他、中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルが参加した。軍縮では、海軍の主力艦を制限する「五か国条約」が成立。また、中国の領土の安全をはかる目的で「九か国条約」が、太平洋の平和を維持するために「四か国条約」が成立した。日英同盟は廃止され、日本の中国進出を抑える目的は達せられた。

普通選挙法と治安維持法

1925年、普通選挙法と治安維持法が同時に成立した。普通選挙法によって、満25歳以上の男性が衆議院の選挙権を持つことになり、有権者は一挙に4倍に増えた。また、普通選挙法と同時に、学生を中心に広がりを見せていた共産主義思想への取り締まりを強化するため、治安維持法が成立。これにより、全国の共産党員の大量検挙が行われた。

動揺する日本

第一次世界大戦後の世界体制の中で、日本は米英との協調路線を選んだ。しかし、その後、日本は立て続けに「戦後恐慌」「金融恐慌」「昭和恐慌」といった経済的な危機に直面。この時期、日本は協調外交から強硬外交へと転換していった。

経済の動揺と金融恐慌

昭和2年、大蔵大臣が不良債権を抱えた銀行名を公表した。不安を感じた人々は預金を引き出すために銀行に押し寄せた。これに端を発し、金融界は混乱し「金融恐慌」が起こった。波紋は全国に広がり、各地の中小銀行は休業や倒産に追い込まれた。

昭和恐慌

世界恐慌(アメリカでの株価大暴落)と金解禁(金の輸出を認めた)の二重の影響で、日本経済は大打撃を受け、「昭和恐慌」に陥った。

中国国民党による国民政府の樹立

中国では中国国民党と軍閥(各地域の地方勢力)が対立し、覇権を争っていた。孫文の後を継いだ蒋介石率いる中国国民党が、南京に国民政府を樹立した(1927年)。そして中国を統一するため、北方軍閥を軍事的に打倒する「北伐」を行なった。

山東出兵

日本政府は、中国東北部の満州における日本の権益を武力で守ることを決定。満州の軍閥で親日的である張作霖を支援して国民革命軍(中国国民党の軍事組織)に対抗するため、中国在留日本人の保護を名目に、3度にわたる山東出兵を実施した。

張作霖爆殺

しかし、張作霖が国民革命軍に敗北すると、関東軍(日本陸軍)の中に、謀略によって張作霖を排除して満州を直接支配するという考えが現れてきた。1928年6月、満州へ引き揚げる張作霖を、関東軍の一部将校が独断で列車ごと爆破して殺害した。

国民政府による中国全土統一

張作霖爆殺事件の結果、中国の抗日運動が活発化した。張作霖の後継者で息子の張学良は、それまで戦っていた国民政府に合流し、その傘下に入った。これにより、中国統一の動きが強化され、関東軍のもくろみとは逆に、日本の満州支配の動きは失敗に終わった。こうして国民党の北伐は完了し、国民政府による中国全土の統一はほぼ完成した。

日中戦争

1931年、南満州鉄道の線路の爆破をきっかけとなり、満州事変が勃発。さらに1937年には北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突したことにより、日中戦争が始まった。いずれも政府の不拡大方針にもかかわらず、軍主導で戦線が拡大。この時期、日本では軍部が発言力を高め、影響力を強めていた。

満州事変

1931年9月18日、関東軍は南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の行為であるとして軍事行動を開始。若槻内閣は、陸軍(関東軍)をこれ以上進軍させない不拡大方針を表明した。しかし、陸軍はこれを無視し、わずか5カ月足らずで、満州全土を占領した。そして、清朝最後の皇帝 溥儀(ふぎ)を執政に置き、満州国を誕生させた。

▼満州進軍の背景

1920年代後半の中国では、蒋介石率いる国民政府のもと中国全土統一の動きが進み、主権回復の機運が高まっていた。それは中国東北部、満州においても同じであった。しかし満州には、日露戦争後に日本が獲得した様々な権益があった。満州は、重化学工業の資源や農民の移住先という点で、日本の発展に不可欠だとして重視されていた。そうした権益が、中国国民政府によって脅かされるのではないかと考えた関東軍参謀 石原莞爾(かんじ)らは行動を起こし、満州事変となった。

テロとクーデター

政党内閣への不満からテロやクーデター計画がおきた。2・26事件以降、軍部の力が強まった。

▼2・26事件

1930年代、昭和恐慌や満州事変に対する政党内閣の対応に、不満が高まっていた。そして、政財界の要人が暗殺されるテロや、陸軍の青年将校や右翼らによる軍事政権樹立を狙うクーデター計画などが次々に起こった。1936年2月26日、皇道派の青年将校たちが決起して1400人の兵士を率い、皇道派中心の軍事政権を樹立しようとした「二・二六事件」が起こり、軍部の力はますます強まっていった。

日中戦争

1937年、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で、日中両軍の武力衝突「盧溝橋事件」が起こり、中国との全面戦争である、日中戦争が始まった。短期決戦を予想していた日本軍の見込みは外れ、戦争は長期化した。

※日中戦争では、日本軍は大部隊を送り込み、国民政府の首都 南京を占領した。この際、女性や子どもを含む多くの中国人を殺害する「南京事件」を起こし、諸外国から非難を浴びた。

第二次世界大戦へ

日中戦争では、日本の進軍に対し、国民政府や中国共産党は、アメリカやイギリス、ソ連などの援助を受けて徹底抗戦を行なった。戦争終結はますます困難となり、第二次世界大戦/太平洋戦争へとつながっていった。

太平洋戦争

1937年に始まった日中戦争は、日本の予想に反して長期化した。戦局を打開するために、日本が選んだのがドイツ・イタリアとの軍事同盟(日独伊三国同盟)であった。日本は1941年には、大国アメリカに宣戦布告して、太平洋戦争となり、結果として、第二次世界大戦に参戦することになった。

第二次世界大戦と三国同盟

1939年、ドイツのナチス党を率いるヒットラーが領土拡大を目的にポーランドへ侵攻。ポーランドと同盟国だったイギリスとフランスは、ただちにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。

※開戦時は、ヨーロッパが戦場であったが、その後、1941年12月の日本と米英との開戦(太平洋戦争)によって、戦火は全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。

日米通商航海条約の破棄

満州事変以来、日本の中国進出が進んだ。日中戦争がはじまるとさらにその支配圏は、満州のみならず中国本土に拡大された。これに対し、アメリカは警戒を強め、1939年日米通商航海条約の破棄を日本に通告した。

日独伊三国軍事同盟

第二次世界大戦で、ドイツ側には、ムッソリー二率いるイタリア(伊)が加わった。1940年、日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟(日独伊三国同盟)を結んで、枢軸国となっていった。この同盟により、日本とアメリカの対立は、さらに深まっていった。

※第二次世界大戦で、日本・ドイツ・イタリアなど全体主義的な枢軸国と戦ったイギリス・フランス・アメリカ・ソ連などの国を「連合国」という。終戦後まもなく設立されたの国際連合のもとになった。

太平洋戦争の勃発

アメリカとの対立が深まった日本は、1941年12月8日、陸軍がイギリス領マレー半島に上陸を開始。さらに同じ日、海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカとイギリスに宣戦を布告した。これにより太平洋戦争がはじまった。

※太平洋戦争は、世界60か国あまりを巻き込んだ人類史上、最も大規模な戦争となった。

敗戦

ミッドウェー海戦敗北以後、巨大な工業生産力を背景に、アメリカを中心とした連合国側の反撃が本格化した。戦局はしだいに日本に厳しくなっていった。1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。3年8か月にわたって続いた太平洋戦争は、終結した。




〔参考・引用〕
第一学習社「高等学校日本史A」/NHK高校講座「日本史」/東進ブックス「金谷の日本史(近現代史)/教育テレビ「10minボックス日本史」