日本は、外交課題であった条約改正を実現し、日清・日露戦争を経て、アジアへの侵略をはじめた。日本国内では、明治・大正の時代の移り変わりとともに国民の生活は大きく変化した。大正デモクラシーとよばれる民主主義的な風潮も強まり、民衆運動が政治を動かしはじめ、政党政治が展開した。
日本は、外交課題であった条約改正を実現し、日清・日露戦争を経て、アジアへの侵略をはじめた。日本国内では、明治・大正の時代の移り変わりとともに国民の生活は大きく変化した。大正デモクラシーとよばれる民主主義的な風潮も強まり、民衆運動が政治を動かしはじめ、政党政治が展開した。
1858年に幕府が列強と結んだ「安政の五か国条約」は「領事裁判権の規定」や「関税自主権の欠如」など、日本にとって不利な不平等条約だった。国際社会の中で自立した近代国家を目指す明治政府にとって、不平等条約の改正は悲願であった。政府は条約改正を目指したが、日本は法制度が整っておらず、司法制度の整備も遅れていたため、列強はなかなか応じなかった。その後、ロシアがアジアに進出を強めてくると、日本を味方につけることを得策と考えたイギリスは歩み寄りを見せ始め、1890年、ついに日本の改正案に同意した。
領事裁判権とは、外国人が在留している国の裁判権に服さず、本国の法にもとづいて本国の領事の裁判を受ける権利。「安政の五か国条約」では、日本で罪を犯した外国人を、日本人が日本の法律で裁くことができなかった。
また、関税自主権とは、国が輸入品に自由に関税をかけることのできる権利。「安政の五か国条約」では、日本は輸入品の税率を自主的に決めることができなかった。
外務卿(今の外務大臣に相当)井上馨(かおる)は、日本の近代化をアピールすべく欧化政策を行ない条約改正交渉に臨んだ。日本側は「領事裁判権の撤廃」と「関税自主権の回復」を求めたがイギリスに反対され、妥協案を受け入れざるを得なかった。
1879年から外務卿を務めた井上馨は、条約締結国を東京に招いて、条約改正のための会議を開こうとした。それに先立って日本の近代化をアピールしようと、盛んに欧米の制度や、風俗・習慣・生活様式などを取り入れる欧化政策を行なった。その象徴ともいえるのが、洋風建築の鹿鳴館。ここに各国の高官を招き、頻繁に西洋式の舞踏会を行なった。日本の欧米化を示すことで、条約改正に有利になるのではないかと考えたためであった。
イギリスが提示した妥協案は、領事裁判権を撤廃する代わりに、外国人の裁判には、外国人判事を半数以上任用するというもの。実質上、領事裁判権を認めているのと同様であった。妥協案が明らかになると、民権派のみならず政府内部からも激しい反発を受け、井上馨は辞任。条約改正会議は無期延期となった。
大隈重信は、欧米列強との個別交渉を行った。これが功を奏し、交渉が進展した。さらに、伊藤博文らが中心となって作成を進めていた大日本帝国憲法の完成が、これを後押しした。しかし、大隈重信は反対派の襲撃で重症を負い、交渉は延期された。
ロシアと対立を深めるイギリスが日本に歩み寄るようになった。日清戦争の直前の1894年、外相であった陸奥宗光はイギリスとの交渉のすえ、領事裁判権の撤廃に成功した。イギリスが条約改正に応じると他の国もそれに続き同様の条件で条約が改正された。日本は欧米諸国と対等の立場に立つこととなった。
さらに、日露戦争終了後の1911年、外相の小村寿太郎がアメリカとの交渉し、関税自主権の獲得に成功した。
1894年、日清戦争が勃発。朝鮮の主導権をめぐる日本と清の対立であった。当時朝鮮は東アジアの大国、清の属国と位置づけられていた。これに対し、日本は朝鮮を独立国と見て、近代的な国際関係を持とうとした。背景には、ロシアの東アジア進出を阻止する目的があった。
ロシアは東アジアに進出しようと、シベリア鉄道を建設した。当時、鉄道は勢力を伸ばす最大の手段であった。鉄道の終点は、朝鮮半島の北側すぐ隣りに位置するウラジオストク。ロシアが朝鮮を影響下に置いてしまうのではないかと日本政府は危機感を持った。そこで政府は日本の安全保障上、国境を守るだけではなく、その外側、つまり朝鮮に日本の影響力を強めようと考えた。そのためには、朝鮮を清の属国ではなく、独立国にする必要があった。
※当時、大陸には、中国を頂点とする、古来からの伝統的な国際関係があった。これは「大陸の秩序」とよばれ、この秩序のもとでは、朝鮮は清の属国と位置付けられていた。
1894年、朝鮮の内乱からはじまった日清戦争では、近代的な軍備に優れていた日本の戦局が有利に展開した。清国軍を朝鮮から追い払い、遼東半島を占領した。黄海開戦では、清の北洋艦隊を打ち破り、圧倒的な勝利を収めた。その後、下関条約(日清講和条約)が結ばれ、日清両国の講和が成立した。
※下関条約の清国側代表は李鴻章、日本側は首相・伊藤博文と外相・陸奥宗光であった。
※清の敗北によって東アジアの伝統的な大陸の秩序は崩壊。朝鮮は独立国となり、国名を「大韓帝国」とあらためた。
清は、それまで属国としていた朝鮮の独立を認めること
清は遼東半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島を日本に譲ること
清は日本に賠償金2億両(約3億円)を支払うこと
下関条約調印からわずか6日後、中国東北部への進出を狙うロシアが、ドイツ、フランスとともに、国際平和を乱すという理由から、遼東半島の返還を日本に要求(三国干渉・1895/明治28年)。三国の圧力に対し、日本の国力などを考えた政府は、この要求を受け入れ遼東半島を清に返還。しかし、日本のロシアに対する反感が高まり、軍備の拡張や工業化を図った。
※三国干渉の後、ロシアは、シベリア鉄道を・満州を縦断する形で完成させた後、シベリアから満州・朝鮮へと勢力を南下させた。
かつて蝦夷地と呼ばれた北海道ではアイヌ民族が独自の言語と文化を育みながら暮らしていた。また、現在の沖縄県には琉球王国という海洋国家があった。
17世紀、シャクシャインの戦いに敗れたアイヌ民族は、以後、全面的に松前藩の支配下におかれた。
19世紀後半、富国強兵を目指す明治政府は、蝦夷地を「北海道」と改め開拓を進めた。
江戸時代、琉球王国は島津氏の支配下に置かれていた。19世紀後半、明治政府は武力を背景に、琉球藩を排し、琉球から沖縄と改め(沖縄県とし)、支配を強めた。
満州と朝鮮半島に侵略すべく、影響を強めるロシアの動きに対して、日本は、危機感を強めていた。1902年、日本は日英同盟を結び対抗。1904年(明治37年)、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まった。日本は勝利を収め、大陸への進出を強めた。
ロシアは満州地域の兵を駐留させ、朝鮮への侵略をうかがっており、朝鮮半島に権益を持っていた日本との間で急速に緊張状態が高まった。当時、ロシアと対立していたイギリスは、日本と「日英同盟」を結んだ(1902/明治35年)。
1904年日露戦争に突入した。日本は戦争を優位に進め、1905年のポーツマツ条約調印によって、日露戦争は終結した。日本は勝利したものの軍事的にも財政的にも限界に達していた。
※日露戦争の戦死者は8万人を超え、戦争の費用は、当時の国家予算の4年分を超える17億円に達していた。
1904年、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まった。翌年には、多大な犠牲者を出しながらも、ロシアの重要拠点である旅順を占領。同年、南満州の要地・奉天で日露両軍の主力が激突。18日間にわたって激しい戦いを繰り広げ、日本軍がロシア軍を破った。するとロシアは、主力であるバルチック艦隊をヨーロッパから日本へ向わせた。日本は、東郷平八郎を司令長官とする連合艦隊で迎え撃ちした。対馬海峡で待ち受けていた連合艦隊は、バルチック艦隊に壊滅的な被害を与え、日本の圧倒的な勝利に終わった。
日露戦争後、ポーツマス条約が調印され、日本は韓国を併合したことに加え、満州にも進出し、鉄道や都市の建設などをを展開した。
韓国における日本の優越権を認める
旅順、大連の租借権や長春以南の鉄道(南満州鉄道)の利権を日本に譲り渡す
北緯50°以南の樺太の譲渡
沿海州とカムチャツカ沿岸の漁業権を日本に与える
しかし、臥薪嘗胆(がしんしょうたん/将来の成功を期して苦労に耐えよう!)を合言葉に日露戦争を戦い、忍耐を強いられていた国民は、賠償金を得られず、領土や権益の獲得も少なかった講和条約に不満が爆発。東京、日比谷公園では講和反対の国民大会が開かれ、参加者の一部は条約破棄などを叫びながら暴徒化し、内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった(日比谷焼き討ち事件/1905年)。これに対して、政府は戒厳令をしいて軍隊を出動させた。
ポーツマス条約で朝鮮半島に対して優越権を得た日本は、日本は韓国に対する支配を本格的に開始した。1905年、第二次日韓協約によって、韓国を保護国として外交権を掌握。ソウルに伊藤博文を長官とする統監府をおいた。さらに第三次日韓協約によって、内政をすべて韓国統監府が握り、韓国軍隊を解散させた。
日本の支配に対して、韓国国民は激しい抵抗を示し、日本によって軍を解散させられた兵士や農民が立ち上がった(義兵戦争)。日本は軍隊を派遣してこれを鎮圧したが、日本への抵抗運動は、その後も続けられた。
※1909年、伊藤博文は民族運動の指導者だった安重根(あんじゅんぐん)によって、ハルビン駅構内で暗殺された。
1910年、日本は韓国併合条約によって、韓国を併合した。このとき朝鮮総督府を設置し、植民地支配を推し進めた。この状態は第二次世界大戦の終わる1945年まで続いた。
日本はポーツマス条約によって、ロシアが持っていた利権の一部を獲得していた。ロシアが所有していた鉄道を母体に、半官半民の南満州鉄道株式会社(通称 満鉄)を設立。満鉄は鉄道だけではなく、沿線地域での鉱山開発や製鉄所の経営、都市建設をはじめとする諸事業を展開して日本の満州経営の中心となっていった。また、軍隊を常駐させ、満州に勢力を伸ばしていった。こうして日本は日露戦争後、朝鮮半島に加えて、満州にも進出していった。
20世紀初めの大正時代、日露戦争に勝利した日本は、国民の間に「一等国」の意識が生まれた。しかし、政治は元老率いる藩閥に握られ、国民の意見が反映されてはいなかった。デモクラシーとは、民主主義のこと。大正時代にはこのデモクラシーを求める声が、人々の間に広がっていった。
1912年、明治天皇が崩御し、元号は大正に変わった。その直後に成立した内閣の総理大臣は、長州藩出身で当時陸軍大将だった桂太郎。桂の背後にいたのが元老の山県有朋。
※元老とは、政治の第一線からしりぞいた後も影響力を持った、薩摩・長州出身の実力者たちのこと。
山県は、貴族院や官僚、軍部などから成る藩閥を形成していた。天皇の名の下に同じ藩閥の人物を首相に就かせ、その首相も自分の子分たちを閣僚に指名した。政治は藩閥に独占され、議会を重視するとした憲法に則った政治が行われているとはいえない状態であった。
閥族政治を行う政府に対し、憲法に則り、議会を尊重する政治を求める運動が起きた。立憲政友会の尾崎行雄は、国民党の犬養毅と共に憲法を護った政治を行うべきだとして「憲政擁護・閥族打破」のスローガンを掲げ、第一次護憲運動を始めた。これによって藩閥ではなく、政党が政治を主導する政党政治の実現を目指した。
1914年、オーストリアとセルビアの戦争をきっかけに、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどが次々に参戦して第一次世界大戦が始まった。日本も日英同盟に基づいて参戦し、中国に軍隊を送った。
総力戦体制のため、国民の民主的要求が高まり、世界では多くの社会的改革が実現。日本でもさまざまな社会運動が起こった。
戦争は長期化し、主な戦場となったヨーロッパの各国は短期間で物資を使い果した。勝敗はそれぞれの国の生産力に左右されることになり、国の全ての資源や労働力を戦争につぎこむ総力戦体制がしかれ、女性も労働に駆り出されるようになった。このため、国民から民主主義的要求が高まり、世界では多くの社会的改革が実現した。イギリスでは女性の参政権獲得がなされ、ロシアではロシア革命によるソヴィエト連邦誕生などがあった。これらは日本にも大きな影響をおよぼし、様々な団体が各地で結成され、社会運動を展開した。
国民の不安が爆発した米騒動はメディアによって全国に飛び火した。都市部では賃金の値上げや、家賃の値下げなどに形を変えた暴動に発展した。
米騒動の規模は全国で70万人以上に拡大。やがて、人々の怒りは政府そのものに向けられるようになり、政府内からも寺内首相の退陣を求める声が上がり、内閣は総辞職した。
米騒動に衝撃を受けた元老らは、立憲政友会総裁で衆議院議員の原敬を首相に推薦した。それまで藩閥や軍人などで占められていた日本の首相の座に、初めて平民の政治家が就くことになった。国民は原首相を「平民宰相」と呼び、期待をよせた。原は、陸軍・海軍・外務の3大臣以外をすべて政友会党員で組織し、初めての本格的な政党内閣が誕生した。
〔参考・引用〕
第一学習社「高等学校日本史A」/NHK高校講座「日本史」/東進ブックス「金谷の日本史(近現代史)/教育テレビ「10minボックス日本史」