開国~幕府の滅亡→明治維新→自由民権運動→立憲政治の開始

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GHQの占領政策と日本国憲法の制定によって、日本は新しい国に生まれ変わった。さらに冷戦がはじまり、朝鮮戦争が勃発するなかで、サンフランシスコ平和条約で、日本は主権を回復した。日本は軍事面でアメリカに依存しつつ、高度経済成長を遂げて経済大国となった。その後、冷戦の終結や、経済の国際化のなかで、現在まで続く政治と経済の混迷の時代がはじまった。

現代の世界と日本

GHQの占領政策と日本国憲法の制定によって、日本は新しい国に生まれ変わった。さらに冷戦がはじまり、朝鮮戦争が勃発するなかで、サンフランシスコ平和条約で、日本は主権を回復した。日本は軍事面でアメリカに依存しつつ、高度経済成長を遂げて経済大国となった。その後、冷戦の終結や、経済の国際化のなかで、現在まで続く政治と経済の混迷の時代がはじまった。

占領と国内改革

1945年8月、日本は無条件降伏し、連合国軍の占領下に置かれた。連合国軍最高司令官指令部(GHQ)は「軍国主義の排除」と「民主化」を基本方針としてさまざまな改革を行なった。占領政策は1948年ごろから民主化優先から、日本の経済的自立を重視する方針へと転換された。

占領統治下の諸改革

終戦後GHQは「軍事主義の排除」と「民主化」を基本方針にさまざまな改革を行なっていった。

▼GHQが行った五大改革
参政権を与えることによる女性の解放
日本で初めて、女性が国の政治へ参加できるようになった。
労働者の団結権の保障
労働組合の結成など、労働者の権利を保障した。
教育の民主化
教育を通じて、民主主義を根付かせようとした。軍国主義的な教科書を廃止し、教育三法が制定されて学校制度が変わった。
秘密警察制度など、圧政的諸制度の撤廃
治安維持法や特別高等警察など、思想や政治信条により人を取り締まる制度を廃止した。
経済の民主化
連合軍は、日本経済を支配していた財閥が軍国主義の基盤の一つになっているとみなし、三井、三菱、住友などに対し、持ち株を売却し、財閥を解体するよう命じた。

日本国憲法

日本政府はGHQと協議を重ねながら、憲法改正案を作成した。日本国憲法は、1947年に施行された。「国の主権者は、国民」へと変わった。

※日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行された。

※日本国憲法が平和と文化を重視していることから、11月3日を文化の日の祝日として定められた。

占領政策の転換

戦後当初、民主化優先だったアメリカの占領政策は、冷戦が激しくなってくると、経済的自立優先の政策へ転換した。

※経済的自立を支援して日本を資本主義陣営の有力な国家に育てようという方針へ転換した。

講和から高度経済成長の時代へ

1952年、日本は独立を果たした。しかし、憲法で戦力の不保持を定めながら、どのようにして国防を行うのかという問題が残った。この問題を巡っては岸信介内閣の時に国内の保守・革新勢力の対立が頂点に達したが、次の池田勇人内閣が打ち出した政策の影響もあって、対立は徐々に沈静化していった。

サンフランシスコ平和条約

吉田茂首相は、サンフランシスコ平和条約に調印。日本は、西側諸国48か国とだけ講和を結び、翌1952年に独立を果たした。また、吉田首相は、日米安全保障条約を結び、これに基づき、自衛隊と防衛庁を発足させた。

55年体制

社会党に対抗して、日本民主党と自由党も合同を進めていた。そして1955年に自由民主党が誕生します。これ以降およそ40年間にわたり、自由民主党は政権を握り続ける事になった。これを55年体制という。

安保改定

岸信介内閣は日米安全保障条約の不平等な点を改め、新しい安全保障条約(=新安保条約)を結ぼうとしていた。これに対して、新安保条約は、アメリカとの軍事同盟であり、戦争に巻き込まれるのではないかと人々は恐れた。そして、大規模な反対運動である安保闘争が起こった。激しい反対運動が続く中、1960年6月19日に、新安保条約は成立した。

※新安保条約の正式名称は、「日米相互協力及び安全保障条約」

▼More - 新安保条約

新安保条約では、まず、アメリカが日本を守る義務が明確化された。これに伴って、日本領内でどちらかの国が攻撃された場合、共同で守り合うことが記された。そして「日本の防衛力の増強」「経済的協力の促進」は、日本側の責任をより強めるものであった。「在日アメリカ軍の軍事行動についての事前協議」「発効後10年で破棄通告できる」は、日米の立場をより対等に近づけるものであった。アメリカと対等に近づいた分だけ、日本の責任も重くなった。

日本の経済成長

1950年代、日本は経済成長を遂げていた。朝鮮特需の後には、神武景気や岩戸景気など、長期間にわたる成長が続いた。その背景には、日本経済の成長を進めようとするアメリカが、1ドル360円という比較的円安の固定為替レートを設定したことなどがあった。こうした輸出に有利な状況で、貿易黒字による成長が続いた。1950年代後半には、「三種の神器」と呼ばれる家電製品が普及し始めるなど、国民の生活も変わっていった。

所得倍増計画

岸信介に続いて首相になった池田勇人は、憲法論争には触れず、「所得倍増計画」を打ち出した。それは10年で国民総生産(GNP)を2倍にするというものであった。池田内閣は、経済活動に不可欠な道路や鉄道などの整備を進めた。また、集中的に公共投資を行い、産業構造を鉱工業中心に変化させていった。さらに、技術革新を推し進め、国際競争力を強化していった。

高度経済成長

池田内閣による所得倍増計画は、わずか7年で目標だったGNP2倍を達成し、成功した。日本は高度経済成長に時代を迎え、いざなぎ景気に突入するとGNPはアメリカに次いで世界第2位となった。

高度経済成長の終焉

1973年、第4次中東戦争が勃発。アラブ産油国が石油生産を減らしたため、原油価格が4倍に跳ね上がった。この第1次石油ショック(石油危機)により原油不足が起こり、激しい物価高騰で工業生産が低下し、日本は不況に陥った。1974年には、実質経済成長率が戦後初めてマイナスとなり、高度経済成長の時代は終わりを告げた。

貿易摩擦

日本企業は、技術革新により、国際競争力をつけることで不況を乗り切ることに成功した。1980年代に入ると、低価格・高品質を実現した日本の製品は世界中に進出し、貿易黒字が拡大した。特にアメリカへの自動車輸出が大きく増え、アメリカの自動車産業に打撃を与えて貿易摩擦に発展した。

▼プラザ合意

貿易摩擦を解消すべく、1985年、ニューヨークのプラザホテルで先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が開かれた。このときなされたプラザ合意では、日本の貿易黒字を減らすため、ドル安・円高政策を進めることが決められた。そして円高になったことにより輸出が減り、日本は再び深刻な不況に陥った。

新しい国際秩序

1989年、米ソの首脳が冷戦の終結を宣言した。このことは保守対革新を基調としてきた日本の55年体制にも強い影響を与えた。また、日本は、60年代の経済成長によって世界第二位の経済大国となった。しかし、バブル経済崩壊後の90年代以降、混迷と停滞が続いた。

東西冷戦の終結

1980年代、東西冷戦によって増大した軍事費のために、ソ連の経済は逼迫していた。1985年、ソ連でゴルバチョフ政権が誕生すると、ゴルバチョフは改革と情報公開に取り組んだ。さらにアメリカとの関係改善にも取り組み、1989年には当時のアメリカ大統領ブッシュとの会談が実現し、「東西冷戦の終結」が宣言された。

ソ連の崩壊と55年体制の終結

1991年、ソ連が崩壊した。日本では政権が交代し、55年体制が終わった。

ソ連の崩壊

1989年、東西冷戦の終結を象徴する「ベルリンの壁の崩壊」が起こった。資本主義の西ドイツと、社会主義の東ドイツとを隔てていた壁が取り壊された。翌1990年、東西ドイツは統一された。さらにその翌年の1991年、ソ連が崩壊し、今まで連邦を構成していた各共和国による独立国家共同体へと変わった。

バブル経済とその崩壊

企業などの余剰資金が投機に流れ、1987年頃から地価や株価が高騰した。1991年には、それらが下落し、バブル崩壊が起こると、日本は深刻な複合不況に陥った。

バブル経済

プラザ合意以降、日本は深刻な不況に陥ったが、日本は、またもやこの不況を克服した。工場を人件費の安い海外へ進出させる一方、日本国内での消費、内需を拡大した。このとき、貿易摩擦を避けるため、余剰資金は設備投資よりも不動産や株式の購入など投機にあてられた。そのため、1987年ごろから土地や株式の価格が高騰した。これをバブル経済という。

現在の世界と日本

冷戦終結後、経済活動のグローバル化が進展。21世紀に入るとBRICSと呼ばれる中国やブラジルなど5カ国の経済成長が顕著になった。日本では少子高齢化の進行や東日本大震災からの復興、原発事故の処理をどうするかなど、さまざまな課題が残っている。


〔参考・引用〕
第一学習社「高等学校日本史A」/NHK高校講座「日本史」/東進ブックス「金谷の日本史(近現代史)/教育テレビ「10minボックス日本史」